あやしい書評ブログ

摩訶不思議な世界へと誘う書物をご紹介。戻って来られなくなってもあしからず。

魔の系譜〜呪いは日常の中にある〜

 

魔の系譜 (講談社学術文庫)

魔の系譜 (講談社学術文庫)

 

 崇徳院の呪いで幕府が崩壊

慶応4年8月25日、年号が明治へと変わるわずか半月前、明治天皇の勅使・大納言源朝臣通富は讃岐へ発った。

向かうは白峯……崇徳上皇の御陵である。平安末期、保元の乱後白河天皇皇位を巡って渡り合い、敗れ去った上皇は、讃岐へと流され46歳で崩御した。

崇徳院といえば、日本最強の怨霊として今なお恐れられている人物だ。

讃岐へ流された後、仏教を厚く信仰した崇徳院は、写経に勤しみ、五部の大乗経をせっせと書き上げる。本気でクーデターを反省していたのか、それとも天皇家から怪しまれないためのカムフラージュだったのか。今では知る由もないが、崇徳院は「後世ために」と言って、書いたお経を京の寺院に奉納したいと天皇家へ申し出る。

ところが、天皇側の返答はまさかのNG。お経を送り返された崇徳院は怒り心頭、「日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」「生きながら天狗の姿にならせたもうぞあさましき」など名言を連発し、食い切った舌の血潮で大乗経に呪詛を書きなぐったという。

崇徳院の死後、京の都に災害や皇族の死が立て続けに起こる。後白河院は病となり、平清盛の狂死も崇徳院の祟りとみなされた。

それから700年後の幕末期。新政府軍が幕府軍を東北地方へと追い詰める中、朝廷方には一つの懸念があった。

もし、崇徳院の霊が旧幕府軍に味方したら?

最悪の事態を避けるため、天皇家は急いで讃岐に使いを派遣。崇徳院の御陵の前で「陸奥出羽の賊徒をば速やかに鎮め定めて天下安穏に護り助けたまへ」と宣明を上げさせたのだ。結果、新政府軍が幕府軍を打ち破り、明治維新の世が訪れたのは、誰もが知るところである。

「怨念」が歴史を突き動かす

古事記から現代に至るまで、連綿と続く悪霊への恐怖と信仰。「死者が生者を支配する」と言ってはばからない民俗学者谷川健一が記す「魔の系譜」は、人間の怨念に彩られてきた日本史の裏側を明らかにする名著である。

犬神、地霊、黄泉返り……もし怨霊や呪いの類いをアホらしいと考えている御仁があらば、ぜひご一読いただきたい。先の崇徳院の逸話から分かる通り、数百年前に死んだ人間が、ある日ひょっこり歴史の表舞台に出てくることは決して珍しくない。

呪いは常に、我々の背中にとりついて、現れ出る日を今かと今かと待ち望んでいるのである。